大食一族 久遠の詩

俺屍リメイクをプレイします

そこにはいけないけれど 後

悪い夢を、頻繁に見るようになった。
戦いに出ている夢。為す術もなく鬼に殺される夢。目の前で家族が倒れる夢。
悲願達成を急いた。死にたくなかった。自分も家族も、もうこれ以上死んでほしくなかった。だからと奥へ奥へ、足を進める。けれど結果はどうだ。扇は手から離れ、鬼がにたりと笑って、そして。
ごうごうと燃える炎、血なまぐさい塔の中で、顔に家族の血飛沫がばしゃりと飛んできて、目が覚める。見慣れた天井がきちんと認識できるまでに、ひどく時間がかかる。はね飛んだ血飛沫の感覚が、いつまでも残り続けて、寝間着が張り付くほどに汗をかいていた。噛み締めていた奥歯が痛い。ここは家だ。けれど、ここはどこだ。お守り代わりにと、父が残した刀を寝所に持ち込んだ。鞘を、握りしめる。ここは家だ。けれど、ここは。
思考に芯が通らないまま、気がつけばまた、眠りに絡め取られていく。
眠りと死が近しい場所にあることを、嫌でも実感する。寝起き特有の、ぼんやりと浮かぶような感覚のなか、ああこのまま、と思うことが増えていった。

「討伐隊のご帰還です!!全員、ご無事です!」
イツ花の明るい声が屋敷に響いたのは、そんなときだった。

***

その日、並んだ食事は実に豪勢なものだった。
蜜でたっぷりと照りをつけて焼いた肉。白くからりと揚がったごぼうと長芋。卵と出汁がたっぷりと使われたたまごふわふわ。新鮮な生の葉物野菜の盛り合わせには、胡麻と味噌のたれがかかっている。小鉢にはおひたし、白和え、そしてきんぴら。皆の前には、大盛りの白米とすり流し汁。わあ、という歓声が、食卓を包んだ。手間も時間もかかったであろう献立を前に、ひかりが「すこし手伝った」と口を開く。すごいな、と目をまるくする六兵衛と、はやく食おうと急かす文太。その横で、楽紗が誇らしげに笑っていた。いただきますと手を合わせた直後から、我先にと大皿に箸が伸びていく。なかでも、食卓の中央に鎮座していたお肉は、皿の上からあっという間に姿を消した。
私の前には、小さなお椀がふたつ。ごく少量の白米と、取皿にと用意されたものだ。折角作って貰ったものを、すこしずつでも食べたいと思い、箸を伸ばす。
たくさんの防具、そして塔の天辺にあった景色。有形無形の戦果を聞きながら、ひとくち、ふたくちと口に運ぶ。けれど、それでもやはり襲ってくる吐き気はどうにもならなかった。視界がぐるぐると回る。聞こえてくる音が安定しない。
「……小町、ちょっと、聞いてる?」
むぎ姉さまの声。頷くのが精一杯だ。家族の心配そうな視線が、こちらへ向けられている。
「ん、ええと、みんな、ごはん、たべててね」
その視線が、楽しい食事の時間を邪魔してしまうようで、申し訳なく、そして居心地が悪い。その、居心地の悪さを感じてしまったこと自体への罪悪感。なんとかして声をしぼりだしたのは、その気持ちから逃れるためだった。
この眠気に身を任せるなら、せめて自室でと、ちゃぶ台に手をついて、立ち上がろうとしてみる。けれど肘がおれ、うまく力が入らない。
「小町を部屋に連れて行くから、私の分を残しておくように」
体がくずれるより先に、姉さまの手が背中に伸びてきた。もう、一人で歩くことがままならないのかという事実が、ずどんと胸を押しつぶしてくる。姉さまの顔が、見れなかった。

****

同じような夢を見た。繰り返し、繰り返し、同じ夢を見た。
けれどそのたびに、柔らかいごはんの香りと、手を引いてくれる影が、現実に戻る標になってくれる。探るように手を伸ばす。硬い刀の鞘の感覚。そして、手の甲に柔らかく、温かい手が重なったのを感じた。
目を覚ます。
「あんたはもう少し寝てなさい。ここにいるから。ちゃんと喋れるようになったら、みんなで話そう」
優しい声。
頷いて、目を閉じた。
そしてまた何度も何度も、同じ夢を見た。
そのたびに、声がかかる。
ごめん、ごはん、たべられなくて、つくってくれたのに。ごはん、ごめんなさい、食べたいの、たべたかったの。みんなに、しんでほしくないの。もっと、ちゃんと、はなしたかったの。ねえさまと、はなしたかった。夢と夢の間で、なんとか言葉を作る。言葉になっているかは、わからない。
いいよ、ちゃんと、わかってる。
そんな返答は、わたしの願望かもしれなかった。
けれど、目に入る外からの光が、白から橙へ、そしてぼんやりとした灯だけに変わり、もういちど明るく白いものになっても、姉さまは変わらず、そこにいた。

***

何度目かの悪夢のあと、目を開けた。瞬きをする。天井の梁が、はっきりと一本に見える。景色は白く、日は高いのだろう。奥歯の痛みはない。息を吸って、ゆっくりと吐ききった。手を持ち上げて、開いて、握る。力は、まだ入るようだった。
「母さん!!!!!」
ひときわ大きな六兵衛の声が鼓膜を震わせる。きん、とした頭の痛みを感じるが、それよりもまだ、六兵衛が家にいるという安堵のほうが大きく、声がした方へ首を少しだけ傾けて、可能な限り視界を巡らせた。
六兵衛の後ろには文太が、楽紗が、ひかりがいた。
「姉さま…?」
自分の声が、まるで小さな子どものように甘えた響きを伴って、耳の奥に返ってきた。馬鹿ね、いるわよ、という声が、枕で塞がってない耳にとまる。
「よかった」
首を反対側へ動かせば、きちんとそこに姉さまの姿があった。よかった、ちゃんと話す機会は、まだある。ちゃんと話せる。よかった。間に合った。何度も口の中で繰り返した。もう一度、天井を見る。何か感じたのか、こちらを覗き込む六兵衛の顔が、くしゃりと歪んだのが見えた。
「みんな、あのね……ちゃんと、話さないと、と思って」
ずっと掠れていた声。けれど思った以上に、しっかりと発することができた。
体を起こす。慌てて六兵衛が背を支えようとしてくれたけれど、それを制して、なんとかして背筋を伸ばした。傍らに置いていた刀の柄を握り込んで持ち上げ、そのまま、ひかりの前へと差し出す。
「まずは、これをね……ひかりに使って欲しい」
「俺に……」
ごく小さな返答にひとつ頷いて、腹に力を込めた。
これはきっと、当主としての、最後の、最後の矜持だ。
「三解丸。これを使って、皆に呪いを解いて欲しいの」
銀灰の柄頭、深い橙の柄糸。目が覚めるような、紅の鞘。金色に走る帯状の粉。短く垂れた、黒の房飾り。継がれてきた刀が、ひかりの手に渡る。頭を下げ、両手で受け取るその表情は固い。引き結ばれた口元が伏せた顔の奥で少しだけ震えているのが、かすかに見えた。
「月が変わって、皆が討伐に出て。そうなったら、わたしは、もうどのくらい生きていられるかわからない。先月の討伐で、塔の頂上は見えたのなら、本当にもう、あと少しだと思う。なら、ひかりがこの刀をしっかりと振るえるようになってから、そこへ向かってほしい」
「当主様、それは…!」
楽紗がもの言いたげに口を開くのを、視線を合わせて制した。そのまま、言葉を続ける。
「楽紗、あなたがねえさまの血を繋ぎたいと言ってくれたこと、わたしはとても嬉しかった。それにね、可能ならやっぱり、やっぱりわたしも生きていたいとは思う。けどね、わたしはきっと……どうやっても間に合わない」
言いながら、その言葉の意味がはっきりと胸を塞ぐ。ああ、死ぬのだ、と思った。死にたくない、と思った。けれどやはり、間に合うことがないというのも、変えられない事実だった。
「ひかりが戦場にでられるまで、あと一月。そのあと、鬼と渡り合えるまでは、無理な進軍は控えると、約束してほしいの」
「し、しかしそれでは」
楽紗の眼が、わたしと、そしてむぎ姉さまを交互に行き来する。背中側に座っている、姉さまの表情は見えない。息を吐いて、ぐっと拳を握った。そのまま、喋る。
「……姉さま」
「ん」
「わたし、とてもひどいことを言っている」
「そうね」
短く、優しい声が、した。
「でも、それは必要なことだ」
いつもどおりの、明るい声。
「あんたがそれを選ぶなら、それに従う……その決断は、《一族》の未来のために、正しいことだよ。ね、漢様」
呼ばれ慣れない名前とともに、背中に手が添えられる。
「皆、いま漢様が言ったとおりだ。皆で約束しよう。悲願達成は、ひかりがしっかりと成長したあと、機を見極めて行うこと。決して焦ったりしないこと。そのために、今回の討伐では武器防具を探して、薬、笛をしっかり集めることに専念しよう。……まあ、一ヶ月でも早く、朱点を屠れるならそれに越したことはないけどね」
むぎ姉さまの声を聞く。ああ、鼻の奥が痛い。自分で言ったことだと言うのに、このままわんわんと泣いてしまいたかった。自分が死ぬことと、姉に生きる未来を諦めろと明確に告げてしまったこと。それが、今まで感じてきたどんな死の恐怖よりも強く、覆いかぶさるように、胸を押しつぶしてくる。
「ほら!討伐の準備」
むぎ姉さまが区切るようにそう告げても、皆がなにか言いたげに、じっとこちらを見つめていた。一人、文太だけがすっと立ち上がり、結局何も言うことなく、そのまま部屋を出ていく。そしてそれを追うように、六兵衛も、ひかりも、そして楽紗も、部屋を出ていった。
「むぎ姉さま」
最後に立ち上がろうとした姉の名前を呼ぶ。
「ん?」
覗き込んでくれるその表情は、やっぱりどこまでも優しい。
「ごめんなさい」
「何が」
「ごめんなさい、わたし、わたし」
言葉にならなかった。結局、涙が出てくるのを止められなかった。
ほんとうは姉さまに生きていてほしい、できれば今月にでも、朱点の首を取って、みんなでごはんが食べたい。姉さまが作ってくれたご飯が食べたい。そんな気持ちが、あとからあとからこみ上げて、けれど喉からもれるのはしゃくりあげる声ばかりだ。
「小町」
呼ばれ慣れた名前だ。父上に、姉さまたちみんなに呼ばれ慣れた名前だ。
「あんたが選んだ道は、正しいよ。だから、大丈夫。それに」
背中をさすってもらいながら、大丈夫なんかじゃない、となんとか絞り出す。けれど、それに頷く姉さまが、言葉を継いだ。
「私はね、小町。ねえさまが逝って、あんたが体調を崩して」
不自然な間。そしてぽたり、と布団の縁に、水滴が落ちた。姉さまの眼から、ぼたぼたと溢れる水滴が、落ちては布団に吸い込まれていく。
「ねえさまと、あんたと、私。三人で過ごした時間のことを、よく思い出すようになった。ああ、思い返せば一瞬だったな、ああでも、もしこのまま生きても……あんなふうに楽しく過ごせることは、もうないんだろうな、って」
「むぎ姉さま」
「だから、小町。私は、後悔はないんだ。死ぬことは確かに、嫌だし……それを、喜んで受け入れようと思ってるわけじゃない。あんたが、それを皆に言うのは、辛い決断だっただろう、って思うよ。あんたは優しいから。でも、私はあんたとね、こうやって話せたから。だから、よかったんだ。ちゃんと、言えて、よかった」
「んん」
溢れた涙が、姉さまの顔に筋を作っている。けれど、その筋に新しく涙が伝うことはなかった。
「どうなるかは、わからない。けど、子どもらには、生きてて欲しい。あんたが最期の務めを果たしたあと、私はそのために、できることを、きっとやり通すから。ちゃんと、見ててよね」
強く、姉さまの体を抱きしめる。
震えて、しゃくりあげて、どうにもならなかったけれど。それでも、姉さまの肩口で、何度も、何度も、頷いた。

*****

討伐隊が出立する日、体を起こすことは出来なかった。
枕元に、戦装束に身を包んだ家族が集まってくれた。漢方薬の効きは悪く、頭がはっきりとしない。楽紗が、必ず生きていてくれと無茶を言う。六兵衛はずっと顔を曇らせている。姉さまが、優しく笑っている。
「いってらっしゃい」
眼を薄く開いて。
そう、声を出すのが、精一杯だった。
ひかりが、家族を見送る声を聞いた。ああ、これで大丈夫、となんの根拠もなく、思った。

*****

粥を口に運ぶ。眠る。指輪を嵌めている指をなぞりながら、考える。
そんなことを、繰り返し、繰り返し、繰り返していた。
託すまでは、最期の務めを果たすまでは、死ねない。しがみつくように粥を口に運ぶ。
ひかりが、粥の味を見てくれている、とイツ花が教えてくれた。卵、鮭、梅干し、菜っ葉の漬物。淡い塩気が、じわりと舌に広がる。目に鮮やかな椀の中身を見ながら、それでも、その味が、日増しにわからなくなっていくことが、たまらなく苦しかった。
粥を口に運ぶ。眠る。指輪をなぞる。夢は、もう、見なかった。
起き上がっている時間が明らかに短くなる。ひかりが訓練をしている声を聞く。粥を口に運ぶ。眠る。いつ、その時が来てもいいように、布団の中で指輪を外す。不思議と風が涼しくなっていくことだけが、はっきりとわかった。
眠る。起きる。粥はすでにほぼ液体のようで、それでも体を案じて作ってくれたものなのだからと、なんとか口にした。けれど、それも叶わなくなっていく。
何度繰り返したか、わからない。
楽紗の顔が浮かんだ。未来へと望む、強い眼差しが浮かんだ。
文太の表情が浮かんだ。六兵衛が泣いている気がする。ひかりの口元は、やはり震えている。
それでも、むぎ姉さまは笑っていた。
そんな光景を、何度も、何度も、繰り返し、頭の中で浮かべて、滑り落ちていく縁で、必死に耐える。
思い返せば一瞬だった、という、姉さまの声がした。幻聴。そして、くん、と引っ張られるように、意識が現を捉えた。
目を動かせば、そばには心配そうにこちらを見るひかりの顔があった。
「当主様、お加減は……」
意識があることへの安堵だろう。心配と綯い交ぜになった表情が、そこにあった。大丈夫、と言ったあとに、耳の奥に残る声をなぞる。
「あのね、ひかり……楽しいときって、一瞬なんだ。一瞬で、終わっちゃうんだ…だからね、見逃しちゃ、だめだからね」
頷くひかりの顔を見ながら、最期の務めを果たすまで死んでたまるか、と、強く思った。

*****

寝て、起きる。眼球を動かして、天井を見る。
もう、それ以外のことは自分一人では何も出来なかった。
意識はまどろみの中にある。自分の思考に、芯が通らない。
ああ、死んだのだ、と思った。いくらしがみついても、勝てなかったのだ、と思った。
声が聞こえた。
かろうじて、それがイツ花の声だとわかった。
風が、涼しい秋の風が、たくさんの音を連れてきた。
目の前で口が動いている。漢様、という呼びかけ。それは、討伐隊が出撃する前、姉さまが呼びかけてくれた名前。
最期の務め、という言葉が、頭に浮かぶ。
枕元に置いた指輪を、なんとか見る。
それに、誰かの手が伸びた。強い金色が、視界を掠めていく。
ああ、指輪が、ちゃんと子孫に渡ったのだ。それが夢ではないと、思いたかった。
イツ花の声が聞こえる。
皆の声が聞こえる。

なにか、言いたかった。
何も、言えなかった。

ただ、おやすみ、というむぎ姉さまの言葉だけが、はっきりと耳に届いた。

そこにはいけないけれど 前

「名前はひかり、職業は剣士になってもらいたい」

ああ、楽紗の声はよく通るな、と思った。
目を開けるというただそれだけの行為に、やたら時間がかかる。頭の中には霧がかかっているようだったけれど、それでも胸まで掛けられた掛け布団の感覚や天井が見えることから、自分の状況は容易に理解できた。何度か瞼に力を入れ、なんとかして開く。すこしだけ頭を傾げれば、薄膜の向こうにぼんやりと広がる光景の中に、見慣れない影がひとつあった。
「おこ、きた?」
目を開ける数倍の時間をかけて、声を絞り出す。喉を震わせたそれはまるで自分のものではないように嗄れていて、楽紗の声とは対照的だ。それでも声が届いたのか、六兵衛がはっとした顔でこちらへ向き、どたどたと枕元へ腰を下ろした。
「よかった、目、覚めて、もう、話せないかと」
ぶつ切りになった声に、馬鹿ねと返してやりたかったけれど叶わない。なんとかして手を動かして、見た目よりずっと柔らかい髪を撫でた。その後ろで、むぎ姉さまが眉尻を下げている。大丈夫、と言おうとして、それもやはり叶わなかった。
「当主様。わたしの子だ。ひかり、と名付けた。いい名前だと思ったんだ」
楽紗に促されたひかりが、六兵衛の横に腰を下ろす。よろしくお願いします、と辿々しく頭を下げる彼を見て、来たばかりの頃の自分を思い出した。障子を貫く橙の夕日が、ひかりの横顔を照らしている。金の双眸が、緊張に震えていた。
抜ける風に夏の暑さはなく、庭先からはかすかに、鈴虫の鳴き声が聞こえてきた。そういえば、楽紗が来たばかりのときも、こんなふうに涼しい風が吹いていたのだ。あなたのなまえには、たくさんの思いが込められているんだよ、と、ねえさまは、楽紗に話せていただろうか。
「よろしくね、ひかり」
腹に力をこめて、名前を呼ぶ。はるか未来へつながっていく、いい名前だと、心から思った。

*****

目の前で討伐準備が進んでいくのを、ぼんやりと眺めていた。このなりで動くのは不可能だろうし、来たばかりのひかりへ訓練をつける、という大事な仕事もある。眠って起きてを繰り返すうち、あっという間に討伐隊が家を出る日を迎えた。
少量だが、食事は喉を通る。漢方のおかげか体も起こせるようになり、見送りは玄関で行うことができた。照りつける太陽に、けれど肌を焼く強さはなく、薄雲の向こうで空にあいた穴のようにまるく光っている。
行ってくる、とひかりを抱きしめる楽紗の顔。帰ってくるから待っていてと、絞り出すような六兵衛の言葉に、ひとつ頷く。その向こうで、むぎ姉さまが唇を引き結んでいる。
なにか、言葉をと思う。なにか、話さなければと思う。けれどいまのわたしに、何が話せるだろう。
「母さん」
逡巡を裂くように、文太がぬっと顔を出した。むぎ姉さまが驚いたように声を上げたけれど、意にも介していないような顔が、ゆるく結われた髪の向こうに見える。
「話さなきゃって。昨日言ってたの聞いたけど」
「なんであんたがそれを」
「聞こえたから。で、もういいの」
いいなら行くけど、と継がれた言葉が終わるまえに、姉さまはこちらへ足を向ける。反射のようにわたしも一歩、足を踏み出した。そして広げられた腕の中に、倒れ込むように身を預ける。
「……いい、帰ってくる前に死んだりしたら、承知しないんだから。小町、帰ってきたら、絶対、ちゃんと話すんだからね。絶対、ぜったいなんだからね。わかった?」
震えた声を聞きながら、何度も何度も頷く。
ちゃんと話そう、それまでは、と、熱くなる目頭を姉さまの肩口に押し付けて、口を開く。
「いってらっしゃい」
「行ってくる」
顔を見合わせる。笑顔は、とんでもなくぎこちなかったけれど、それでも。
それでも笑って、全員の背中を、送り出した。

****

ひかりは、よく動く子だった。
指南書を片手に訓練を見る。体が動く日は術の手ほどきや、組み手の相手をすることもあった。その全てを真っ直ぐに受け止め、糧にしていく姿は、本当に頼もしかった。
それは乾いた土が雨を吸い込むようだった。どんな言葉も、どんな動きも、逃してなるものかと貪欲に吸収していく。読み方を教えなくとも、きっかけさえ教えれば術の習得はあっという間だったし、藁巻きへ行われる斬込みも、日増しに力強くなっていく。訓練初日はずたずたと荒かった藁の切り口は、月の半分を超える頃には刺さるほどに鋭くなっていた。そして、切り落とされた藁はせっせと台所に運び込まれ、干物を焼いたり猪肉を焼いたりと大活躍だ。今日もまた、切り落とされた藁が台所にずらりと並んでいた。

肉を頬張るひかりの横で、わたし用に取り分けられたお菜を口に運ぶ。小鉢にはお揚げと白菜、それからお豆腐とそぼろ。どれもとろとろと煮込まれていて、淡い味付けは食欲のない体にはありがたかった。
出汁の染みた白菜が、おなじく柔らかく炊かれた白米と一緒に、胃の中へするりと落ちていく。ごく少量盛られたご飯を、ゆっくりゆっくり咀嚼した。自分の小鉢と、目の前の大皿。空になったのは、ほぼ同時だった。
「当主様、その……おいしかったですか」
御馳走様と手を合わせたとき、躊躇いがちにぽつりと声がかかる。正面から投げかけられた、伺うような視線を受け止めて、ひとつ頷いた。瞬間、ほっと安心したような息が、ひかりの口元から漏れる。
「ひかり?どうしたの」
「いや……ええと」
照れたような、困ったような表情。瞳が右へ左へ行ったりきたりしている。口元はもごもごとしていて、隠しているのか、言い出せないのか。促すために、顔を覗き込んだ。
「漢サマ、今日のゴハン、ひかり様が作ってくださったんですよ」
耐えかねた、というように、皿を下げながらイツ花が笑う。
「ええ?」
「い、イツ花、言わなくていいって」
「でもとっても美味しかったですしィ」
目の前で交わされるやりとり。口の中に、じゅわっとしたお揚げの味が蘇る。イツ花はきっと、わたしの体調を考えて味を見てくれたのだろう。その気遣いがありがたく、胸が、じわりとした。
「料理は面白いけど、やっぱり難しいよ。刀の扱いより包丁のほうが難しいかもしれない。イツ花はすごいよ」
まっすぐな褒め言葉に、イツ花は困ったように笑っている。そうだ、わたしたちはずっと作ってもらうばかりだった。ちゃんとお礼を言わないと、と思うわたしの前で、ひかりがバツの悪そうな顔をしている。
「今日も、白菜を削ごうとして失敗しちゃったし」
言いながらひかりは、手の甲をひらひら、と揺らす。その親指の付け根に、手当されていない真新しい傷が見えた。
赤く、鋭く、浅い傷。
わたしは、その傷を、知っていた。
包丁は慣れますよ、それより手当を、というイツ花の声が、妙に遠く聞こえる。

選考試合から戻った日、用意されていた大好物の赤飯と、おかず。
ひかりの手に一筋入った傷が、頭の中で、むぎ姉さまの手と重なって。
あの日食べきれなかった赤飯と、お肉の味が蘇る。

あたたまったはずの胸が、急速に冷えていくのを感じた。

光年先の未来④

遠のいた意識は、ほどなくして戻った。優勝賞品を手に、心配そうにこちらを覗き込む家族に、当たり前に大丈夫だよと伝える。けれど、歩けるよという言葉は途中で遮られ、思い切り眉尻を下げた息子としばらくの問答ののち、結局、おぶわれることとなった。
道すがら、ぽつり、ぽつり、と六兵衛は言葉をこぼす。気づけなくて、面目ない。そんな声が、ぴとりと触れた背中から伝わる。それをどう受け取るべきか、息子の言葉を飲み込めないまま曖昧に頷いた。肩越しに見える景色は滲んでいて、楽紗が抱える賞品の袋を、文太が奪おうとしている。なんだよと言いながら楽しそうに笑う楽紗の声を聞きながら、ぼんやりと、皆大きくなったなぁ、と思った。

燃えるような夕焼けのなかでも、家は不思議と、はっきり明るく見えた。楽紗が誰よりも早く足を進め、軽やかな足取りで門をくぐっていく。全員がくぐり終えるころには、あたりに、優勝祝いに炊いてくれたであろう赤飯の香りが満ちていた。
小豆と餅米の、ほっかりとした香り。そこに濃い味噌炒めの匂いが重なっている。汁物はなんだろう。すまし汁だろうか、すり流しだろうか。どれも、何度もおかわりをした、なによりも大好きなごはんだ。
けれどそれなのに、いつもなら口の中に湧いてくる唾も、うるさいくらいに喚く腹も、まるで蓋をしてしまっているようになんの反応も示さない。長く、深く、息を吐いた。

玄関前で出迎えてくれたむぎ姉さまが、よくやったと文太を叩いている。ばんばんという音は大きく、まるで布団を思い切り叩くような動作は、なんというか思い切りが良かった。文太本人は不服そうに眉根を寄せていたが、それでも口元がいつもより、少しだけ緩んでいる気がした。
「あんたね、ちょっとは喜びなさい!」
「……喜んでる」
全く二人らしいやりとりだった。姉さまは呆れたような表情のまま、楽紗が差し出した賞品の袋を受け取る。そのとき、伸ばされた姉さまの手に、薄く一筋、手当されないまま塞がったであろう、真新しい傷があるのが見えた。
「なにはともあれ……本当に、お疲れ様、みんな」
どうしたのそれ、と言おうとして、けれどうまく行かなかった。姉さまから掛けられた労いの言葉に、六兵衛が頷く。こちらに視線を向けた姉さまの表情が、一瞬だけ曇り、けれどそれはすぐに、いつものからっとした笑みに変わった。
そこに死の影がないことに、心の底から安堵した。

*****

いざ食卓についても胃を塞ぐ蓋は外れないようで、並んだ献立はどれも大好物であるはずなのに、匂いを嗅ぐだけでお腹が張るような感覚があった。目の前で平らげられていく御菜をみながら、なんとか咀嚼と嚥下を行うけれど、その間にも意識がぶつ切りになる。体の痛みはないけれど、奇妙な浮遊感や滑り落ちていくような心地が続いて気分が悪かった。この眠気のような、脱力感のようなものに身を任せてしまえば、楽になるだろうか。明日には楽紗の息子がやってくるのだ。職業は、名前は、と交わされる言葉。合間合間に皆が何か、口々に声を掛けてくるのだけれど、水の中に入ってしまったように音が濁る。
「小町、ちょっと……」
ようやく聞きとれた自分の名前。姉さまの顔がまた、曇っている。返事をしようとしてまた、うまくいかない。落ちてくる目蓋と霞む視界、駄目だ、と思いながら、もはや抗いきれなかった。
「小町!!!!」
悲鳴のような声とともに、傾ぐ体が支えられた。畳の上に箸が落ち、卓袱台の上で茶碗が揺れる音がした。重なるように、六兵衛の、楽紗の声が聞こえる。けれどそれを言葉として聞き取ることができない。
脳の奥で低く掠れた声が蘇る。ああ、明確に這い寄ってくる死神を前に、後退るなというのは不可能ではないか。恐怖とも諦念ともつかない気持ちが、帯のように重なって押し寄せては引いていく。

薄闇の中、もう少し、あと少しだけ、せめて勝機を手繰り寄せるまで、と。

そう思いながら、目を閉じた。