帰還の日
まるで祈りのように、もう起きてくれるなと思った。
仰向けに倒れたまま、朱点の体は動かなかった。けれどそれは、祈りが届いたからではない。
見下ろすように腹を見れば、最期、ひかりに抉りこまれた袈裟懸けの傷が生々しく残っていた。そして拳形にひしゃげた痕が、そこに重なるように二つ。二人の攻撃がいかに重かったか。たやすく、想像がついた。
弓を握ったまま、だらりと腕を下ろす。
「おわった」
口から漏れたのは、至極単純な言葉だった。
「……おわった」
もう一度、繰り返す。
終わったのだ。戦いが。
息を長く吸って、ゆっくりと吐き出した。
自分の感情を形容する言葉が浮かばない。出来るのはただ、朱点の体を見下ろしながら、終わった、終わったのだと口の中で繰り返すことのみだった。
誰も何も言わない。
場に、自分の声がぽつぽつと落ちる以外は、何の音もしない。
しかし結局、それはほんのわずかな間だけだった。
「楽紗!!」
悲鳴のようなその音が、自分の名前を呼んでいるのだと分かったのは、ぐいと手を引かれて後方に傾いだ体が、直立を取り戻してからだった。
手を引いたのは文太で、もう片手は私の背を支えるように添えられているということも、反射的に見上げた先、彼が睨みつけるように見ているのが、今の今まで自分が立っていた場所だということも、全てを、後追いで理解する。
何を、と問う前に、足元がわずかに揺れた。けれど正面、ほんの数歩先。手を伸ばせば届く距離は、わずかに、どころの話ではない。
「な、なんだ……?」
六兵衛の困惑した声が、じゅぶじゅぶという不快な水音を縫って耳に届く。
それは、異様としか言いようのない光景だった。
文字通り波打ち、大きく脈動を繰り返す奇妙な床が、音をたてて朱点童子の体を飲み込んでいく。
枯木のようだった足も、ひしゃげて凹んだ大きな腹も、そこに埋まっていた先祖も、大きな爪も細長い腕も、最期まで傷つくことのなかった少年のような顔も、何の抵抗もなされぬまま、ずぶずぶと飲み込まれ、そして。
耳に届いたのは、赤子の泣き声。
そこから先のことは、あまり覚えていない。
******
薄く目を開き、ゆっくりと体を起こす。そのとき初めて、自分が倒れていたのだということに気がついた。
痛みはない。
ただ耳の奥に、無責任な言葉がこびりついている。
ぐわんぐわんと頭が痛んだ。ここはどこで、あれからどうなったのか。朱点を殺したのは覚えている。けれどその後、どうやってここへ来たのか。まるで靄がかかったかのように、全てがはっきりとしない。こめかみに手を遣りながら、薄い闇のなか、周りを見渡した。
「……っ、みんな!」
一番に目に飛び込んできたのは、霞んだ視界でもはっきりと分かる人影。それは、床板の上に転がっている家族の姿だった。皆戦装束を纏い、煤も傷もそのままだ。なぜ、どうして、疑問が浮かんで、しかしそんなことはどうでもいい、皆の無事を確認しなければ。脳を経由しないまま口から声が迸り、上半身だけを起こした姿勢のまま、這うように近付く。ひかりの背に手を伸ばした直後、ぴくり、とひかりの指先が動くのが見えた。
「しっかりしろ!!!」
安堵するのは早い。気が、急いている。しっかりしろ、母さんが分かるかと言いながら、回復の術を編む。心臓は明確に早鐘を打っていた。春菜で足りるか、いや、技力を惜しんでどうする。意識を指先に集中させ、そして。
「ああ、目覚められたんですね。よかった」
唱えようとして、あまり耳馴染みのない声によって遮られた。
後方から聞こえた声に、警戒したまま上体を捻って声の主を見遣った。同時に弓を番えようと背中に手を伸ばした。が、その指は空を切っただけだった。
「大丈夫、皆無事です」
もう一度掛けられた声に、薄闇の中で目を凝らす。自分よりも小さい体躯と、少し曲がった背中。長い装束。柔和な笑み。それらには、はっきりと見覚えがあった。
「あなたは、川向いの……お寺の」
和尚さん。尻切れのように、最後の言葉は口の中で霧散した。
「はい。皆さん倒れておられたので……すこし乱暴になりましたが、ここへ運ばせていただきました」
ゆったりとした声。指先にこもった力を少しずつ緩めながら、改めて今いる場所を見回す。
しっかりと組まれた梁。木戸は閉められている。ほんの僅かな隙間から光が漏れているが、部屋を照らすほどではない。はっきり見えはしないけれど、間取りや匂いから、部屋に覚えがないことだけははっきりと分かる。ここがお寺なら、木戸の奥が本堂だろうか。
「そう、だったのか。いや……」
「どうかなさいましたか」
言葉を繋ごうとして、どうにも胸を潰すような違和感に、喉が詰まった。それをうまく口に出せないまま、唾を飲む。ふ、と和尚の口から、笑みを含んだ吐息が漏れたのが聞こえた。
「……ところで、当主さま。悲願を達成なされたのですね、おめでとうございます」
そのまま継がれた言葉に、目を丸くすることしかできなかった。一体何故、と顔に書いていたのだろう、和尚はそのまま、言葉を続ける。
「……物凄い音がしましてね。すわ地鳴りか、鉄砲水かと皆で騒いでおったのです。けれど、ほどなくして、あなた方が潜っていった地獄の入り口が、予めなにもなかったかのように空き地になっておりまして」
「空き地」
「そうです。あの禍々しい印も、色濃くあった瘴気のようなものも、次から次へ湧く小さな鬼も。まるきり、無くなっておりました。なので、京の民は皆、これは鬼の脅威が去ったのだと」
「そう、か……」
「皆、祭りの準備をしておりますよ。ほら、音が聞こえませんか」
ただ、言われた言葉に鸚鵡返しをしながら、同意を返すことしかできない。そうか、終わったのかと、改めて思う。言われて耳をすませば確かに、外からは祭囃子が聞こえてくる。一枚戸を隔てた向こうで、平穏な世界を祝う準備がなされている事実に、ようやく、脳が戦いの終焉を受け入れ始めた。
悲願、そう、掛けられた呪いは解けたのだ、と。
長く息を吐きながら、額に手を伸ばす。
こつん、と硬質な感触が返ってきた。
それは。
触れ慣れた呪いの珠だ。目が、開くのがわかる。心臓が再び早鐘を打ち始める。呼吸が浅くなる。停滞しようとしていた思考が、無理矢理に急回転をさせられているような感覚。血が巡る。頭の中を、一気に巡っていく。
「どうか、なさいましたか」
和尚の笑みは崩れない。
「………和尚、わたしたちは、どこに倒れていたんだ」
「はて」
「和尚、わたしたちを、どうやってここへ運んだんだ」
返事はない。
それが答えのようなものだ。
けれど、すがるように言葉を継ぐ。
「この寺に、貴方以外の気配がないのはどうしてだ。いや」
息を吸った。
「あなたに、人の気配がしないのはどうしてだ」
息を吐き出しながら顔を見る。
「こうして話しているのに、皆が起きないのはどうしてだ!!!答えろ!!」
そこまで吐き出しきったとき。
にい、とその口元が、見知った形に歪むのが見えた。
「大正解」
それは間違いなく、つい先程まで相対していた和尚のものではなく。
あの塔の最上階で自分たちを迎えた、この戦の元凶の笑みで。
「……ねえ、本当にちゃらにするのかどうかを、選びたくはない?」
歪められた唇は、
至極楽しそうに、そんな言葉を吐いた。