大食一族 久遠の詩
「おまえは、一体」
絞り出せたのは、ただそれだけだった。
家族は相変わらず起きない。薄く上下する彼らの胸を、背中を見て、気取られぬよう息を吐いた。目の前の和尚は相変わらず、ただ楽しそうに唇を歪めている。表情が見える程度の暗さが、こんなにも腹立たしい。
「分かってて聞くなんて、君は本当に愚かなんだね?まあ、いいんだけどサ」
顔貌は老齢男性のそれであるのに、声音は少年のように弾んでいた。それが何であるか理解はしたが、しかし到底納得できるものではなかった。ふつふつと、疑問と疑念が腹の中で渦を巻く。
「……私は、私達は、お前を確かに殺したはずだ、なんでここにいるんだ、どうして呪いは解けていない!!!」
指に残る硬質な感触が、お前を生かしてなるものかという、文字通り呪いの声に変わって聞こえてくる気がしていた。振り切るように大声を出せば、和尚の顔が心底鬱陶しい、という表情に変わっていく。
「うるさいなぁ。そのへん、説明してやる義理がどこにあるのサ」
やる気のない声。頭に血が上っていくのがわかる。転がった弓を取ろうと、手を床へ伸ばした。立ち上がらなくても弓は使える、きっと。いや、力を込めるなら立ち上がるべきで、頭の中は混乱したまま要領を得ずこんがらがり続けている。冷静になれ、と思いながら、それが一向に叶わない。しばらくの沈黙、そして先に口を開いたのは相手だった。
「ま、ぐだぐだ言うより見た方が早いでしょ」
呆れと面倒臭さ、それからほんの少し混ざった何か。感情の色を読み取りきれず、眉間の皺がただ深くなるのを感じる。訝しむだけの空気の中で、ぱちん、と何かが弾けるような音がした。身構える間もなく、視界が白に染まる。反射的に腕で目を覆ったが、到底防ぎきれるものではなかった。けれど眩んだ世界は音もなく薄闇に戻り始める。
ゆるゆると腕を下ろせば、そこにあったのは、一枚の板だった。
「これは……?」
目を凝らす。薄暗い中ではその影しか見えないが、装飾がついているのだろうか、四隅が細かな凹凸に縁取られているのがわかる。和尚と自分を隔てる位置に突如現れたそれ。何だ、と口に出しながら、わずか先にあるそれに近づくために、なんとか腕を支えにして立ち上がる。そのとき、板の中で何かが動いたような気がして、思わず動きが止まる。
同時に、板の中の何かも止まる。焦りの中で体を起こしきって近づき、ようやく合点がいった。
「鏡……?」
「はい、そのとーり」
鏡の後ろから、雑な肯定の声がした瞬間、鏡が薄闇を晴らすように光を放ち始めた。
それは目を焼くものではなく、何度か瞬きをすれば、目の前の光景は正しく認識できる程度の光だった。凹凸が見えていた縁は金色の装飾がされていて、鏡自体の厚みは指三本分程度だ。支えるものがなにもないにも関わらず、目の前でそれは自立している。ぐるりとあたりを見渡せば、淡い白に照らされた部屋の中はやはり何もなく、まるで打ち捨てられたかのような家族たちの体が、残酷に照らされていた。
僅かな焦りの中、視線は鏡に戻り、そして。
そこに映っていたのは、自分ではなかった。
「忌まわしい二つの呪いは、憎しみや悲しみが消えたとき、自然に解けるでしょう」
白と金の豪奢な衣服。耳の上に飾られた淡桃の花。覚えのある、けれど全く見覚えのない、微笑みと声音。
「だから、この上は一刻も早く…安らかな日常にお戻りになることを、切に希望いたします」
その微笑みは崩れない。彼女が誰であるかはすぐに思い至る。交神の図録通りの、ついぞ一度も血を交えなかったその姿。何故、彼女が。
「太照天……」
「はい」
理解を得ないまま口を開けば、その呼びかけに鏡の中の神は柔らかく微笑み、頷いた。優しく、けれどどこか薄い微笑みが、まっすぐにこちらに向けられている。
わずかに落ちた沈黙は、けれど嘲りの声によって破られる。
「ははは!相変わらず胡散臭いね!こんな茶番に人を巻き込んでおいてサ」
茶番。確かに茶番だ。暗がりに閉じ込めて下手な芝居を打った目の前の男は、相変わらず和尚の姿を保ったままだ。けれど、その茶番、という言葉はおそらく、そこのみを指すのではないだろう。女神の微笑みは、崩れない。
「なあ、覚えてるだろ?ちゃらでいい、と言った神のこと……この茶番の黒幕が誰なのかくらい、もう分かってるハズだ。怒り、憎しみ、悲しみ……ああ、その気持ちは分かるよ!誰よりも!!ねえそれ……到底消せるものじゃないよね?」
芝居がかった声。言われている言葉を飲み込むのに時間がかかる。ちゃらでいい。確かに言われた。目の前の男はあの戦いのあと、赤子になって天に昇ったのだ。ちゃらでいい。今までそいつが、何をしてきたか。無責任さが目の奥に蘇り、ちかちかと痛んだ。
「ねえ。殴ってやりたい、って顔に見えるけど……君がそう望むなら、戦を続けることは出来るよ?」
「は」
思わず漏れた声に、くく、と軽い笑い声が返ってきた。
「だぁから。このまま尻尾巻いて逃げるなら、これを壊せばいい。殴りたいなら、戦を続けるんだ。やり方?簡単サ。この鏡に触れればいいよ。そうすれば、きみのだぁい好きな家族まるごと、あっちの世界に送ってあげる。ま、そうなったら帰っては来られないだろうけどサ!!」
アハハハ、と軽薄な笑い声が部屋に響く。まくし立てられたその言葉で、選択を迫られていることは理解出来た。が、あまりにも想定していたこととかけ離れすぎていて、うまく処理が出来ていない。
怒りをぶつけるために、呪いを受け入れる?いまの怒りを飲み込んで、流して、生きる?想像すらしていなかった問いかけに、思わず後方で横たわる家族の方に視線が動く。
「この鏡を壊すか、あるいは中に入るか。決めるのは、貴方です」
けれど制するように掛けられた言葉。笑みこそ崩れていないが、それは強制するような響きで、耳に届いた。ぐっと唾を飲み込んで、もう一度その姿を見る。三本、ぴょこんと立った色違いの髪。当主様、おはようございます!と聞き慣れた声が耳の奥で蘇る。息を吸って、吐いた。
「壊したらどうなるんだ」
「こちらに来ることは二度と出来ないでしょう」
「憎しみや悲しみが消えたときと言ったが、もし消えなければ?」
「呪いを解くのは難しいでしょうね」
返答に淀みはない。浅くなりそうな呼吸。それでもなんとか深く息をしながら、頭の中を片付けていく。怒りはある。なにもかもがちゃらになるわけがないのに、身勝手な言い分で天に昇っていった神。自分が生きるためではなく、呪いを解くために戦いに身を投じてきた先祖たち。今際の際でこぼれ落ちた母の言葉。胃の腑が、熱い。
「ねえ、どっちがまだマシかなんて、わかってるんじゃない?少なくとも君たちはずっと戦ってきたんだろ?それが今からも続くだけサ。今までと変わらないし、殴ってれば溜飲も下がるだろうし、憎しみやら悲しみやら、好きなだけぶつけてやればいいんじゃない?」
男の言葉は止まらない。今消化しきれない思いも、そうしていればいつか晴れるかもしれない。それは確かに、そうかもしれないことだ。
「でももし、君が鏡に入らず、けれどそれを流すことも出来ないなら、もう呪いを解く方法なんてなくなるだろうね?もちろん君だけじゃない、君の家族もサ!!!アハハ!!!!」
目の前の男が言うことは、間違いなく事実なのだ。この場で流すことができるかと言われれば、それは確かに、とても難しいことなのは確かなのだ。頭の中に、ぱちぱちと音を立てながら、今までのことが蘇る。痛み、苦しみ、喪失、奔流のようなそれ。目を閉じる。そして、瞼のうしろに、家族の顔があった。
息子が作ったご飯を皆で食べたときのあたたかさ。一緒に生きたいと笑ってくれた弟ののんびりとした声。いつだって前に立ってくれた白く大きな背中。そしてその向こうに、母の、姉たちの顔。
細った指。けれどしっかりとした声音。楽紗、と呼んでくれるその、やわらかな。ああ、と息が漏れた。
沈黙。
どのくらい、そうしていただろう。随分長い沈黙のように感じた。
「私は」
声を出す。出して、自分が息を止めていたことに気づく。息を止められるほど、その沈黙は短い間であったのだ。
「大切な人に、大切な人たちに、言われたんだ」
絞り出す。
「朱点を倒したあとの時間……たとえ同じように考えなくても、一緒にいたい人と、何を考えているかを話し合えと。たまらなく難しいことだけれど、そっちの方がいいと」
手元に、弓を引き寄せる。
「今この場で……ひとりで、結論を出さないといけないのだろう。その決断の責は、当主として、わたしが負う」
ぎり、と弓弦が鳴った。
矢羽を掴む。
「わたしは……長い人生を生きる、たまらなく難しい道を選ぼう。そして、話すことから……自分の言葉を、気持ちを伝えることから、逃げはしない」
女神が、ゆっくりと目を閉じた。
男が憎々しげに顔を歪ませ、何かを言おうとして口を開く。けれどそれが音につながる前に、指から力を抜いた。
「これが、結論だ」
ひゅお、と。
何度も聞いた、矢を放つ音が鳴る。
炎を纏った矢が鏡に吸い込まれ、そして。
ばりんと割れたのは、一体何だったのか。
*****
「楽紗。おつかれ」
背後から、からりと明るい、いつもどおりの六兵衛の声が耳に届いた。ぽん、と肩に置かれた手。頭を少し傾げるように動かせば、その手は煤に塗れて真っ黒だ。細かな傷が見えるが、流血はない。目の焦点が合いきらない。世界は、ぼんやりとしていた。
「……ろく…べ……?」
置かれた状況が飲み込めず、定まらない視界のなか、きょろきょろとあたりを見回す。屋外、それもひどく開けた場所であることがかろうじて分かる。おかしい、今の今まで、寺の中にいたはずではないのか。あの問答は。そうだ。呪いは。徐々に鮮明になっていく思考、とっさに額に手をやろうとして、直後視界が塞がれた。
塞がれた、というよりは覆われたが正しく、それは目だけではなく体全体だ。強い圧に、何が起きたのかを把握しきることが出来ない。自分の背中に手が回っている。それがとても強く。
「楽紗、楽紗」
ああ、抱きつかれているのか。それに思い至ったのと、その声の主が文太であり、いまいま自分を抱きしめている人物と同一であることに気づいたのは同時であった。
「ブン、痛い」
あまりに直接的な言い方だが、痛いのは事実だった。ごめん、という小さな謝罪のあと、ゆるゆるとその体が離れていく。そして、その表情が、定まった焦点の真ん中ではっきりと見えた。
くしゃりと歪んだ、子どものような表情。
その後ろで刀を抱えて、笑顔でこちらを伺う我が子。
後方からすっと、顔を覗き込んでくれる大きな弟。
そのどれもに。
呪いの珠は、なかった。
ああ。
「………終わったん、だな」
呟けば、目の前のブンがゆっくりと頷いた。顔が歪んだのは一瞬だったようで、今はいつもの無表情に近い。ただ口角だけが、ほんのわずか上がっている。その後ろに広がる光景がようやくはっきりと見え、ここが、修羅の塔が立っていた場所であることが分かった。空地になっていた、というあの言葉は、どうやら嘘ではなかったらしい。そうだ、あれは夢だったのか。私がした決断は。和尚、赤毛、天界最高神、ああ皆の気持ちは。言いたいことが何一つまとまらない。
「母さん」
ぽつんと立っていたひかりが、こちらへ足を進める。少しだけ離れていた距離が詰まり、ごく近くで、ひかりの笑顔を見ることができた。額を見れば、薄くついた血の跡が擦れている。
「ひかり」
「母さん、俺ね、母さんが、皆が、自分が、生きてて嬉しい」
衒いのない言葉だった。まっすぐな言葉だった。そして、何よりも聞きたい言葉だった。この言葉が、全ての答えである気がした。
鼻の奥がつんとする。傍らで、六兵衛が何度も頷いている。文太の表情が、一層緩んだ。
「ああ、ああ」
頷いて、額に手を遣る。そこにはなにもない。ただ、人の肌があるだけだった。
「母さんも嬉しい!!!」
叫んで、文太の体ごと、ひかりに手を伸ばす。お、と声が降ってきて、六兵衛の長い腕が、全員を抱えるように回された。おしくらまんじゅうの中央にいるような文太だけが、やや不服そうな声を上げたのが聞こえた。ぎゅ、と音が立つほど強く、全員が密着していた。
「…………帰ろう」
ほんのわずか、何を言おうか迷ったのち、極めて簡単な言葉を落とす。うん、とひかりの声がすぐに返ってきた。六兵衛の腕が解かれ、風が吹いた。どこか抜け落ちたような感覚のなか、全員の顔を見渡す。どうにも形容できない空気が、そこに満ちていた。
けれど。
不意に、くう、と。何かの音が耳に届いた。
すぐに合点がいく。それは、だれかの腹の虫だろう。はは、と笑ったのは六兵衛だ。誰の腹から鳴ったかは分からない。けれど、どうせ道すがら、全員の腹から鳴るのだろう。
和が解ける。目を閉じる。胸の中に、怒りが残っていないわけはない。
けれど。
それでも、これから、生きていくのだ。
怒りを抱え、ときにぶつけて、憤りと苦しさとどうにもならない気持ちを、溶かして飲み込みながら、前へ。
息を吸って吐く。どこかから、食欲をそそる匂いがして。
祭りの喧騒が、やけに明るく、耳に届いた。
大食一族 久遠の詩 完