大食一族 久遠の詩

俺屍リメイクをプレイします

決戦前夜

『姉様が天上に昇ってすぐだ。前当主さまとの約束もある。もちろん一月でも早く悲願をと思う気持ちはあるが、新しく得た術をどう活かせるかを試しておきたい。私も、皆も。補強できる力があるなら補強したいのが本音だ。だから今月は蔵に残った薬を飲み、先月までと同じ場所まで進む。その奥へ進むのは、全てがうまく噛み合うか、試してからでもいいと……私は、そう思ったんだが、皆はどうだ』
出撃前の、自分の言葉を思い出す。
皆からの反論はなかった。六兵衛はいつもの笑顔でそれがいいと背を押してくれた。ひかりも文太も頷いてくれた。地獄での討伐はあっという間に過ぎ、大きな苦もなく一月を終えることが、出来てしまった。
機は熟したと言っていい。気力も体力も満ちている。先に進む時がきたと、明確に、そう思う。思っている。だから、進まなくてはいけない。
墨を擦りながら、何度も同じことを考えている。薄く垂らした水が黒に染まり始めて数刻。硯の上で擦れる墨の音を聞きながら、私は一体、何度自分の言葉を反芻しているだろう。
手を止め、目を閉じた。
近くで鳴る虎落笛が、はっきりと耳に届く。
夕食を終え、居間から当主の部屋へ来る途中、庭先でちらちらと雪が舞いはじめたのが見えた。空気は乾ききっていて、冷たさよりも痛さが勝るような気温。綿埃のような雪は飛ばされるばかりで、積もるかどうかは風次第か、と思いながら、すん、と洟をすする。
手元の墨は、すでに十分な濃さになっている。疲れからくる軽い指先の痺れを、手首を振って飛ばしながら、筆を握った。
一〇二七年、十二月。
小さな蝋燭だけが照らす薄暗い部屋で、討伐記録に年月日を書き入れる。討伐隊の名前を記し、向かった先を連ね、手に入れたもの、到達地点、屠った鬼。細かく記すため筆を滑らせようとして、けれどどうにもうまく文字が続かなかった。
筆を置いて、息を吐く。
白く凍ることはないけれど、自分の体から熱が抜けていくような心地がした。滲んだ文字が、紙の上でのたくっている。やはり、頭の中で、延々同じ言葉が巡る。

正しかったのか。
正しいのだろうか。

頭を振っても、手を握って開いてみても、背中を伸ばしても、その問いは頭から消えず、そして答えも出はしない。分かっている、現状、答えなどないのだ。それなのに。
私の判断は。討伐に向かった、私の判断は。
手に入れた薬。
持ち帰ることを諦めた茶碗。
仇敵を目の前にして、家へと引き返した。
それらは。
正しかったのだろうか。
それらが絶え間なく、脳を揺らしている。
もう一度、息を吐いて、冷たい空気を吸い込んだ。筆を取り、紙の上へ筆先を置く。
筆は進まない。
自分の部屋とも居間とも違う匂いが胸を満たしている。歴代の当主が積み上げてきたものが、この部屋には集まっているのだ。並んだ討伐記録の背表紙は、日に焼けて褪せているものもある。継いできた名前と指輪。それがすべて、自分の手元にあるという事実。それに、今更痛みにも似たような圧を感じるのは、ああ。
自分の影が、蝋燭の炎で揺れている。揺らいではいけない、と思うたび、その圧が、赤毛の男の声を伴って自分の身のうちを焼いていくような気がする。人間、鬼、朱点童子、天界、神、楽しみのための駒、あれ、引き返しちゃうんだ、折角来たのに怖気ついたのかなぁ、臆病なのは親譲りなのかもね、ああそういえば、君のおかあさんはーーー

「楽紗、ちょっといいかな」

ぐわん、と頭が揺れたような心地がした。反射的に顔を、声のした方へ向ける。障子の向こうに、ぼんやりと、大きな影がひとつ。月明かりもない中でその輪郭はまるではっきりとしていないけれど、それが誰のものなのかはすぐに分かった。
「六兵衛……?」
名前を呼ぶ。入っていいかと問われ、ああと答える。からりと引かれた障子の向こうには、穏やかに笑んだ六兵衛の姿があった。
「仕事中に面目ない。少し話したくて」
「あ、いや……」
仕事中、と言われて、ほんの少し罪悪感が胸を刺した。何せ全く進んでいない。どころか、記録には大きな墨だまりができている。隠すべきかと思ったが、まぁ無駄だろうとそのまま広げて、六兵衛を招き入れる。すとん、と正面に腰を下ろす六兵衛の目を見ながら、口を開いた。
「話って?」
「うーん、ええとな」
わかりやすく、うーんと首を捻る六兵衛の言葉を待つ。うーんうーんと何度も何度も言うその姿は、なんだか丸々と肥えた猫のような呑気さで、戦場で鬼を屠るあの強さと、頭の中で重ならない。
「楽紗が何を考えてるか、知りたくて」
「え」
六兵衛は申し訳なさそうに眉尻を下げている。それでも口元は笑顔だ。一番よく見る表情だなと思った。
「いや、要領を得なくて面目ない。来月はいよいよだろうな、って思ったから」
「あ、え、いや……六兵衛は、なにか、考えているのか」
うーん、と、間を縫うような思案の声があって、そのまま言葉がつながっていく。
「母さんや姉さんはああ言ってたけど、俺は、この先どうなるかなんてわからないなーって、何となく思ってて。そりゃ、他の人と違って長く生きられないけど、今まで鬼と戦ってきた先祖の人らのために、生きてるわけでも生きていくわけでもないし。来月もし、天界や朱点がなにかして、これ以上のことが起きましたって言われても、言われたところで、なぁ」
「なぁ、って!!」
変わらない困ったような笑顔に、もどかしさが胸の中で爆発した。ちり、と何かに火がつくような感覚。留められず、言葉が弾けていく。
「そんなことがあってはいけないだろう!!!私たちは、私は君たちを、死なせたくないから!だから!」
浮かんだ言葉を練る余裕はなく、捲し立てるように声をぶつけた。面目ない、という六兵衛の声が二度ほど聞こえ、目の前に六兵衛のつむじが見えた。下げられた頭を見て、自分の呼吸が随分荒くなっていることにようやく気付く。大きく息を吸って、吐き出した。六兵衛の頭が上がる。その表情は、ずいぶんと固い。
「無駄死にするつもりはないよ。もちろん、一族の悲願を達成して、長く生きたい」
「なら」
拳を握る。深呼吸をしたはずなのに、心拍は早鐘を打ち続けていた。胸の中にあった靄が、出口目掛けて駆け上ってくるように、言葉を止めることができない。
「なら万全を期すべきじゃないか!!だから薬を飲んだ、一月待った!それは正しくないのか!?もし私が判断したことが、間違っていたら!もし、先月の討伐で奥まで進んでいたら全て終わっていたとしたら!いたずらに、君たちの、命を短くしているかもしれない!策を練る隙を相手に与えているかもしれない!!そうなったら、今まで積み重ねてきたものを、私がふいにしてしまうかもしれない!!そうしたら」
頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。ただ不安をぶつけているだけではないか。六兵衛の顔を見る。固い表情が、不意に緩んだ。
「うーん。それはあるかもしれない。だけど、俺はさ、ええと。楽紗とも一緒に生きてたいし」
「……は」
返ってきたのは、反論でも何でもなかった。落ち着きを失った当主を窘めるものでもなかった。ただ、単純な言葉に、文字通り声を失う。
「ええと、だからさ。君たちは、って言うけど、俺がいま戦ってるのは、文太や、ひかりや、もちろん楽紗とも、一緒に生きてたいからで。だから、もし何かあっても、そのとき一緒に考えられたら」
言葉が止まった。噛み合っているようで噛み合っていない。何が言いたいのかを考えて、とりあえず言葉を待つことしかできなかった。そのうち、六兵衛の表情は、見る間にいつもの困ったような顔になり、うーんと、少し考えた後、納得したように口を開いた。
「これからどうなるか分からないけど、朱点を倒しさえすれば、何かはどうにかなるし、そうするしかない。その先、呪いがどうなるかは置いておいて、楽紗と、文太と、ひかりと、イツ花と。帰ってまたメシが食えたらいいなと、俺はそう思ってた。質問の答えに、なってるかな」
結ばれた言葉を聞いて、沈黙が落ちる。息を吸って吐いてを五度ほど繰り返してやっと、六兵衛が私の問いに答えていたことに気づく。何を考えているか、という問いの答えが、いま聞いた言葉だった。ただ、それだけだった。
「………それは」
なんとかして、絞り出す。
「わたしも、おなじだ。そのために……」
「うん」
「そのために、朱点を、倒そう、と、今思った。そうだな、どうなるかは、わからない。けど、今の私たちなら、きっと遅れを取ることはない」
言いながら、何故か、頭の中で巡っていたものが、ゆっくりと晴れていくような気がしていた。何故かは、わからなかった。けれど、自分が今口にした言葉は正しいと、そう、胸を張って言える。
「うん。楽紗は強いし、俺らがいるから」
「そうとも」
頷きながら、目を閉じた。身の内を焦がしていたようなあの感覚は、随分薄らいでいる。
目を開ける。
答えになっただろうか、と、小さく溢す。
表情を窺えば、目の前にあるのはいつもの笑顔で。
私の言葉を、穏やかに肯定してくれた。
息を吐く。
「六兵衛、ありがとう」
「いや、……なんか」
礼を言えば、六兵衛は頭をがりがりと掻きながら、少しだけ罰が悪そうに笑う。
「やっぱり、話すのは難しいな。楽紗が怒ったとき、正直肝が冷えた」
「それは……悪かった」
そういえば、こんなに声を荒げたのは初めてかもしれないな、と思う。いや気にするな、と言う六兵衛に、今は甘えることにした。
もう一度礼を言おうとして、不意にちいさな不安が、脳の中に小さく浮かぶ。
「なぁ、六兵衛」
「ん?」
「文太も、同じ気持ちだろうか」
それは、口から滑り出てきた疑問だった。六兵衛はこう思ってくれている。なら、文太は?拳を握る。同じ気持ちであればいいと、私は思っているのだろうか。答えは、ここにはないというのに。
「……それは、聞いてみるしか、ないねぇ」
六兵衛の言葉に、そうだよなと頷く。姉様が亡くなった時の文太を思い出す。いつも子憎たらしいほど飄々としていて、表情を変えない弟が、唯一取り乱したあの瞬間。討伐に出る前に、もっと話を聞けていればと、今更思う。少し沈んだような六兵衛の顔を見て、それは私たち二人ともの気持ちであったのだ、と、そう思った。
「難しいな」
「うん。難しい……けど、……そうだな」
切り替えるように、六兵衛が立ち上がり、そしてこちらに手を伸ばす。にっ、と、いつもとは少し違う笑みを浮かべて、そして。
「長く楽しむためには、必要なんだそうだよ」
褐色の、大きな手を取る。自分とは随分違うその手を握って、立ち上がりながら。

知ってるよ、と、笑い返した。