大食一族 久遠の詩

俺屍リメイクをプレイします

此岸のわたし

鼻が痛むような、冷たい風が吹いている。
それでも冬ほどではなく、息が白くなることもなければ、指がかじかむこともない。去年の今はもう少し暖かかった気がするな、なんてとりとめもないことをぼんやり考えながら、柔らかい月明かりの中、ぽつんと立つ寂れた井戸から、桶いっぱいに水を汲んだ。がさがさと、木の葉がこすれる音がしている。


夏に、姉を見送った。
そして季節が変わって、妹を見送った。

桶を置く。手燭のぼんやりとした光を頼りに、柄杓を桶の中に突っ込んで引き上げる。ざぱ、と薄い水音は、流れる川の音の中でやけに響いたが、構わず墓石に水を撒いた。揺れる炎で照らしながら、墓に落とされた鳥の糞やら塵やらを拭う。手を動かしても、深呼吸をしても、薄れることなく一つの言葉が、頭の中を巡っている。
人として弔われた姉、神として祀られた妹。
その差は一体何なのだろう。
眠りを妨げるように何度も巡る問い。それになんとかしてけりをつけようと、寝入った皆を起こさぬように屋敷を出た。少し歩けば、風に当たれば。そう思いながら歩を進め、結局墓まで来てしまったけれど、答えなど出るわけがなかった。
目の前に立つ墓標には、先祖たちの名前に並んで、姉の名が記されている。その名の隣に刻まれているのは「旭」という一文字。彼以降に生まれた先祖は皆、死後神様として祀られているから、ここに名前は並ばないのだ、と、教えてくれたのは姉だった。
だから、妹の名前も、ここに並ぶことはない。昇天の儀式はつつがなく終わり、妹は神になった。自分はどうなのだろう?何度も握り込んだ拳が、不意にずきりと痛んだ。

ねえ、と頭の中で、墓に話しかけて手を合わせる。
けれど、近くを流れる川のせせらぎ以外は、当たり前に何も聞こえてこなかった。

****

結局、疑問を解消するためのとっかかりは何もないまま、墓を後にした。
寺から屋敷までは、そう遠くない距離だ。考え事をしていればあっという間に屋敷の門が見えてくる。時間が時間だからか誰とすれ違うこともなく、月明かりの中門をくぐった。
手燭の明かりを手で遮りながら、足音を忍ばせる。家族を起こさないように、出歩いたことへの心配をかけないように、出てきたときと同様、玄関ではなく裏口へ回ろう。そう思いながら、庭先の角を曲がったとき。
不意に、違和感が胸を撫でた。
風に、ごく僅か混ざった火の匂い。少しだけ開いた井戸の蓋。自分が屋敷を出て戻るまで、ほんの数刻程度だというのに。思わず足を止める。
風は凪いで、物音はしない。なんだ、と思ったそのとき、台所に、明かりがちらついたのが見えた。
反射的に拳を握ったが、探っても敵意や殺気の類は感じられなかった。ということは家族の誰かだろう。しかし影はぼんやりとしていて、誰であるかの判別まではできなかった。
誰であれ鉢合わせれば、深夜に屋敷を抜けて何処へ行っていた、とは問われるだろう。話すことに問題はないが、ばれないならそちらの方がいい。あの明かりが厠に向かうなら、それを待ってから裏口に回ればいいのだから……と、頭の中で結論づけて、改めて揺れる影を見る。
しかし、廊下を進み、想像通り厠へ向かう明かりと、もう一つ。台所に、灯ったままの明かりが見える。
こんな時間に、台所で火を灯したままにする理由が見えなかった。それに、火の匂いと井戸の蓋。もしもあれが侵入者で、殺気を自分が読み取れていないだけだったら、という不安が、じわりと胸に広がった。
一瞬だけ迷って、台所の方へ足を進めた。焦りが心拍を早めていく。けれど一族の財産が詰まった蔵に近いのは台所だし、大きな竈やら味噌樽やら、身を潜める場所もあるから、優先すべきはそちらのはずだ。もしも杞憂ならそれはその時だし、案外文太や六兵衛がつまみ食いをしてるだけかもしれない。そうだったら叱ってやろう。六兵衛なら面目ない、と謝ってくれるだろうから。湧き上がってくる不安を押さえつけながら、気配を潜めたまま、台所裏の勝手口に手をかけた。
開け放ち、手燭をかざす。
しかしそこには人影はおろか、人の気配さえなかった。
ただ竈のすぐそばで、蝋燭が一本揺れているだけだ。
じじ、と芯が燃える音に、杞憂だったかとひとつ息を吐き、淡い月明かりと橙の灯火に照らされた台所を見回す。
いつもの竈、いつもの樽、いつもの鍋、いつもの桶。
いつもの場所に、けれど、ひとつだけ見慣れないものがあった。
竈にかけっぱなしになっている鍋の横に、白い紙束が几帳面に重ねられている。
ぴゅう、と風が鳴った。背中に当たる冷たい空気に、もし蝋燭が倒れて紙束に引火でもしたら、という嫌な想像がよぎる。蝋燭を吹き消そうと、足を進めて顔を近づけた。
そのとき。
紙束に綴られていた文字が、目にとまった。

苦しいな
ごめんなさい

思わず目を見張った。震えるその文字には、見覚えがある。墨溜まりができ、かと思えば掠れ、漢字は潰れてしまっているけれど。見間違うはずがない。

そうしたら、どんなこたえでも、本当のことだと思おう。
それがきっと、最期だ

この文字は。
逝ってしまった、ねえさまの。
これは何か、というのをを考えるより先に手が動いた。頁を捲ろう。何が書いてある。紙束をまとめて掴む。もっと明るいところで。色々な言葉が、頭の中を駆け巡っていく。足音が、衣擦れの音がして、ゆら、と炎が揺らめく。手元の影が二重になる。けれど、その文字から目が離せない。

「……むぎ様、なぜ、ここに……?」

困惑と焦りが綯い交ぜになった「家族」の声が。
ゆっくりと、私の耳を撫でた。