大食一族 久遠の詩

俺屍リメイクをプレイします

すすむことができるなら④

帰宅してすぐ、足に力が入らなくなった。
玄関先で動けなくなってしまったことがこれ以上なく情けなく、しかし涙は出ない。代わりに、胸のあたりに虚があいたような感覚が、ぼんやりと漂っていた。自分一人で動けるからと強がってみても、絶え絶えになる息を吐きながらでは、まるで説得力はなかった。
夢も、むぎも、小町も、表情を歪めながら支えてくれる。半ば引きずられるようにして床へ向かい、枕に頭を預けた瞬間から、ああ、ずるずると力が抜けていく。
そうして意識は一度、そこで途切れたのだった。


***

どうしたい、と問われている。
揺蕩うような意識のなか、目の前に並んでいる食材を見る。大きな平皿の上には、捌かれたばかりであろう赤々とした猪肉が重なっている。傍のあれは生の木の子だろうか。ざく切りにされている白菜は瑞々しい。どちらも時期は違うはずなのに、萎びている様子はまるでない。中央には土鍋があり、火は見当たらないのに、なみなみと満たされた金色の出汁は、くつくつと音を立てていた。
飯碗に山盛りになった白米。炊き立てなのかつやつやとしている。白磁の小鉢には艶々とした茄子の揚げ浸しが小さく並び、もう一回り小さな取皿からは、酢と柑橘の香りが漂う。それらすべてが行儀良く、白亜色の卓にずらりと鎮座していた。あたりを見回す。そこは見慣れた、いつも食事をとる居間であるのに、ただその卓だけが、やけに場違いだった。
どうしたい。もう一度、低い声が鼓膜を震わせた。問いかける声はしているのに、まるで誰の姿も見えない。なんなの、と言おうとしたけれど言葉にならず、それよりも何故だか急激に空腹を覚え、半ば自棄のように肉も野菜も丸ごと、出汁の中に突っ込んだ。ふつふつと沸く鍋に木杓を突っ込み、肉をほぐして煮えるのを待つ。ほどなくして香りが立ち、出汁の中で色味を変えた肉と野菜へ箸を沈めた。掴めるだけ掴み、取り皿に一度置いたあと、行儀悪く思い切り頬張る。
口の中で、脂身がとける。火の通り切っていない白菜をさっくりと噛み切る。白米を口に運ぶ。茄子に箸をつける。満たされていく。体が軽くなる。まだ、まだ。
食べられる。
戦える。
まだ動ける。
まだ動きたい。まだ、せめて、もう、あと一回。

碗も皿もすっかり空になってようやく、目が覚めた。
それが夢であったことを悟ると同時に、体の怠さが失せていることに気付く。
まだ。
まだ、あと、もう一回。
夢の中とおなじように反芻し、拳を握って起き上がった。


***

ごめんね、ごめんね、と何度も謝った。
謝るなと言われたけれど、それでも、わたしの決断が、もみじの行動を狭めている。
何度頭を下げても、下げたりなかった。
それでも、わたしには戦うことしかできないと、そう思った。
すすむことができるなら。
先へ、家族と、先へ進むことができるなら、ほんとうに立ち上がれなくなるまでは、戦いたい。
もみじは笑って、それがいいと言ってくれた。
前に座る娘たちの表情からは、うまく感情を読み取れない。わたしの身を案じてくれていることは理解できた。けれど、けれど。それでも、と言葉を尽くす。
結果、先月とおなじ面子での討伐。姉上たちの奥義の併せを、戦法の軸にしますと、当主様は言ってくれた。むぎはすぐに頷き、けれど不安を押しとどめているような、そんな曖昧な笑顔で、それでも任せてと叫んでくれた。

あともうすこし猶予をください、と祈ったのは、神にではなく、人として生きていたときのあのひとたちにだった。

****

そこからのことは、あまり覚えていない。

****


倒れ臥す髪。巨大な体が轟音をたてて崩れ落ちる。黒い靄と、ぶすぶすと何かが尽きていく音がした。膝にはもう力を入れられない。娘たちの歓声、けれど直後、それはわたしの名前と悲鳴に変わり、背中へ落ちてきた。腹が冷たい。胸が潰れる。ごめんなさい。最後まで、立っていたかったのに。

そんなことを思いながら、とろとろと目を覚ました。
ああ、また夢か。夢の中で夢を見て、それが何度繰り返されたか分からない。ここは現実なのか、それとも、わたしはとっくに死んでしまったのかな。そんなことを思いながら、ぐっと強く目を瞑り、ゆっくりと解いた。いつもはすぐに合うはずの焦点が、まるで一向に合わない。見慣れた天井の梁が、何故か何本も通っている。喉が痛み、体が軋み、開け放たれた障子から生温い空気の匂いがする。蒸し暑いはずなのに、体がそれを受け入れていない。体温を保つことができていないのだろうか、カタカタと、噛み合わせが音を立てていた。

「きりえ様、目を覚まされたのですネ」
心配そうな声が、鼓膜を揺らす。ああ、イツ花がいるってことは、きっとここは現実だ。不思議な確信と、寝続けてしまったことへの罪悪感が混ざり合い、ごめんなさい、と口をついて言葉が出掛かる。しかしそれよりも前に、イツ花が首を振った。ああ、状態も気持ちも、わかって、くれてるんだなぁ。なぜか自然にそう思えて、言いようのない安堵が、胸に落ちた。
「……みんなは?」
「ええと……きりえ様、覚えて、いらっしゃらない…….でしょうか」
言いづらそうに、イツ花は口を開いた。記憶を手繰っても、皆が討伐に向かった映像が浮かばない。
「……白骨城に向かわれました。け、けれど!!もうすぐ、お戻りになる筈です!!必ず敵を討つと、きりえ様の手を握って、皆さま向かわれて」
白骨城。聞いた途端に、ざわりと肌を撫でるものがあった。骨の鬼。血の匂い。呻き声。げたげたと耳障りな嗤い声。そんな、と言おうとして、言葉が繋がる前に、玄関からがたり、と音が響いた。イツ花が素早く立ち上がる。出迎えに行ったのだ。討伐隊だ。皆が帰ってきた。けれどイツ花の声は聞こえない。お戻りになりましたという、あの言葉が聞こえない。何があった。何があったのだ。ああ。振り絞る。無事であることを確かめなければ死ねない。奥歯を噛みしめた。動けないだとか、そんなことを言っている場合ではない。

「………ゆ、め」

廊下の手すりをずるずると辿った先、血塗れの、妹分の姿があった。
「なに、が」
「姉さん。敵は討った、あの鬼は、あの髪は切った、けど、けど」
皆が混乱していた。血塗れの夢を抱えて息を切らすもみじの姿が、どうしようと叫ぶ娘の表情が、あの日の自分達に重なる。今までぼやけていた視界は、妙にはっきりとしていた。
「わ、たし、わたしが、わたしがなにもできなかった、わたしのせいで、ゆめねえさまが、わたしが、とうしゅなのに、なにも、なにも、どうしよう、ねえさま、ああーーーー!!!」
小町が叫ぶ。堰を切ったような泣き声だった。夢の呼吸は薄い。傷こそ塞がっているけれど顔は蒼白で、腕は力なくだらりと垂れている。意識がないことは明白だった。
けれど。
「………こまち」
紅の髪に手を伸ばした。足を進めようとして、けれどわたしの足は動かず、皆が体を支えてくれた。だめ、あともう少し。皆が、夢と、わたしを見比べている。ごめんなさい、夢の無事を、見届けてからと思うのに。じりじりと燃え尽きていく命の音がはっきりと聞こえる。いよいよ、体に力が入らず、視界が黒く塗りつぶされていく。それでも、声だけは切らしてなるものかと、最後に、腹に力を込めた。
「あのね。あのね…….わたしが、天上に行けたら……夢の魂が、いのちが、ちゃんともどってこれるように、するからね、だから」
はっ、と、息を飲む音だけが聞こえた。
このまま、すすむの。すすむことができるから、みんな。だから、ね。うしろには、なにもないの、まえをみて、あとじさらな、ければ、しにがみは、こないもの。ああ、どこまで声に出せていただろう。
「はんぱは、だめだよ。化けて、でてやるんだからね」
最後の言葉だけが、耳に返ってきた。
わかったよ、と、低い声がそこに重なる。

視界にひとつ、蛍が飛んだ。
それが何なのかは、わからないままだった。