すすむことができるなら①
一歩でも前に。
強い強い兄が、最期に残した言葉だった。
上下していた胸がゆっくりと動かなくなり、イツ花さんが臨終の言葉を落とす。旭兄上が、前当主であった父が、最期まで食べた姉上がいなくなったときと同じように、静かに、静かに告げられた言葉。指輪は妹の手に渡り、それを代わる代わるに見る娘たち。皆で頑張ろうね、と、夢が小町の手を取り、娘はそんな二人をまるごと抱きしめていた。もみじは噛み締めていた唇をほどき、その輪にゆっくりと足を進めていく。悲しみの縁から、それでも未来を踏み締めることができる、強い眼差しが、そこにあった。
眠る、兄の顔を見る。
胸が詰まる。呼吸が、うまく出来ない。
夜の帳はすっかりと下りて、すこしだけ、冷たい風が抜けていった。
ああ。わたしは。
いつだって、気付くのが遅いのだ。
***
「ねぇ、今月はどこに行くの、と・う・しゅ・さ・ま!」
「もう!むぎねえさまの意地悪!やめて、って言ったのに!」
「ごーめんごめん」
「むぎ、あまり揶揄わないであげようね。今月どうするか、皆で考えましょ」
卓袱台の上に並んだ大皿と、手元にある飯碗を娘たち三人の箸が行き来している。すこし気温が上がってきたからか、主菜の味付けは味噌ではなく出汁と醤油だった。細かく刻まれた鶏肉と、菜葉が柔らかく炊かれたそれは、気持ちいいほどすいすいと無くなっていく。副菜も幾分さっぱりとしたものが並んでいたが、すこしほろ苦い菜の花のおひたしはあまり人気がないようで、小鉢のなか、恨めしそうにこちらを見ていた。もみじは娘たちが食べるのをしばらく見つめ、ゆっくりとおひたしに箸を伸ばす。行き来する箸の数が増えたのを眺めながら、ああ、この子が、父親になったんだなぁ、なんて、きっと当主様が聞いたら、すこし笑うのだろう。そんなことを考え、いやいや今の当主は小町なのだから、と思い直す。
「……姉上、食べないのか」
「ん?たべてるよ?」
「そうか」
やりとりは短い。もみじもまた、気持ちいい食べっぷりだ。食事の邪魔にならないようにとだけ、いつもよりずいぶん低く結われた赤い髪が、背中で小さく揺れている。そういえば、わたしの髪色は、娘に継がれなかったなと思ったとき、ふと、視界の端で、小さな自分が喉をつまらせて水を飲んでいるのが見えた。父上が水を差し出してくれ、一番上の兄がそれを可笑しそうに見ている。姉上は慌てて声をかけてくれていて、ええと。
「………上、きりえ姉上」
「……あ、ごめん、呆としてた」
もみじの声と、心配そうな家族の表情が、ぼやけていた視界をはっきりとさせる。娘の目線が泳ぎ、口元は微かに震えていた。きっと、何かに思い至ったのだろう。皆が箸を止め、心配するような表情で、不安そうな表情で、ええと、うん、ごめん。
父のように、少しでも取り繕うことが出来たらと思っていた。兄上のように、何かを遺して逝ければと思っていた。けれど、きっと、そのどちらも出来ないのだろう。気持ちのいい風が、開け放たれた障子から吹き込み、穏やかな日差しに暖められた春の香りが、ゆっくりと抜けていく。
「……あのね、みんな。わたし、あんまり器用に色々できないから、先に言っておこうと思うの。もう多分、わたしは、長く生きてはいられない。だから、みんなで、迷宮の奥、いけるところまで、行きたいの。だから、わたし、髪を討伐したい。半端なことはしたくない。父上が進めなかった、ずっと止まってたっていう親王鎮魂墓、ずいぶん奥へ進めるようになったでしょう。そこの最奥にいる、髪を討伐したい。目的地が決められないなら、そこに行きたい。いいかな」
息を継ぎながら言い切ったあと、食卓には沈黙が落ちた。
息を飲む音がして、皆が小町の方を見た。わたしは、ぐるりと皆の顔を見渡したあと、同じように小町の顔を見る。少しだけ泳いだ目、それでも、最後に力強く頷いてくれた。
「じゃあ、決まりだ。ああ、ごはん、止めちゃってごめんなさい。食べきっちゃおう」
食事を促す。ゆるゆるとまた、箸が動きはじめ、そこに、自分のものが混ざる。おひたしの苦味は、不思議とあまり感じなかった。
息を飲んだ音。
それが誰のものなのかは、結局わからなかった。
続く