言い残すことは、何もない
君たちの目に、おれはどう、映っていただろう。
そんなことばかりを、考えていた。
「刀削、ちょっといいか」
討伐記録を付けながら、隣で記録を漁る弟分に声をかける。ちょうど一年ほど遡って読んでいるらしい。こちらが視線を向けても、刀削は過去の討伐記を読むことに集中しているようで、視線を上げずに一言、あぁ、と呟いたのみだった。
揺らぐ蝋燭の光に、横顔が照らされている。濃い褐色の肌は、娘のそれとよく似ていた。
「来月、甘明に交神をお願いしようと思う」
そして、一番下の妹分にも。優しく笑い、いつでもおれを支えてくれる、妹分。その子が、いよいよ交神だ。刀削はまだこちらを見ずに、いいんじゃないか、と声を漏らす。生返事だが、触れたい本題は、この先にあった。
「だから来月のちいねの訓練、おれにやらせてくれないか」
「何で」
ようやく顔を上げた刀削の表情は、おれの予想とは違っていた。眉根には皺が寄り、薄い唇がへの字に折れている。明確な、不機嫌のサインだ。そして、何か言いたいことを堪えるように、彼の喉が鳴った。
てっきりおどけて、やぁだよ、なんて言われるかと思ったのに。彼は、理由を問うている。隙間を抜ける風の音だけが場違いに響いて、言葉を選びながら、口を開いた。
「刀削、おれはもう1歳7ヶ月だ。母上や兄上と同じなのであれば、命の刻限はもうすぐそこまで迫っているだろう。おれは、この家の当主だから。おれがやってきたことは、直接伝えたい。だから」
頼む、というおれに、一瞬顔を歪めた刀削が、すぐに表情を変えて笑いかけた。彼の父親に、よく似た笑顔だった。
おれは、この顔を、知っている。
「んな堅苦しくならなくたって、来月は甘明の交神だろ。皆で見てやればいい。縁側でミカンでも食べながら見物するさ、俺は」
笑顔のまま、彼の視線は討伐記録へと戻っていった。
「そうか」
一言返して、記録をつける作業に戻る。
大江山の討伐記録。これをつけることが、あの山で得た経験を伝えることが、俺にできる精一杯だった。
***
ちいねの訓練を終え、甘明が交神から帰る頃、目に見えて体は不調を訴え始めた。足が震えて、暗い思いばかりが胸を塞ぐ。
「討伐隊長を、お願いしてもいいか」
「当たり前だろうが」
短く、言葉を交わした。刀削はそれだけ言って、娘の方へと走っていく。娘への愛情表現はなかなかに熱く、刀削が走っていった先で、舌打ちが聞こえた気がした。苦笑しながら、甘明が二人の間に入るのが見える。その横で、うるちが豪快に笑っていた。
愛しい、家族たちの姿。
ちいねは初陣だ。娘のためなら、いくら彼でも無理のない進軍を心掛けてくれるだろう。
一月後にあっさり裏切られることになるその考えを抱きながら、鼻をつまんで漢方を飲んだあと、とろとろと眠りに落ちた。
***
父上、無策の策、と言うではないか。刀削兄上は、正しい進軍をしたと思うぞ。
俺は、いけると思ったから行った。あのまま戦ってても、うるの武器は手に入らなかっただろうし、行って情報を得るのが正しいと思ったんだよ。
当主さま、心配されるお気持ちはわかります。でも、わたしたち、無事に帰ってきましたから、ね。
大丈夫だったから、安心してください。わたし、強くなりますから。
家族たちの声が、頭の中で響いている。今月の討伐も難しいことは、体の具合を思えば当然だと思ってしまった自分。そして、この状態で白骨城を駆けた母の姿が、家族の声に重なった。
甘明のお子が来て、彼は剣士になるという。
体調を崩されているところ、訓練をお願いしてしまい、申し訳ございませんと甘明は言う。気にしなくていい、それよりも隊長を君にお願いしたいと伝えたとき、彼女の目は大きく見開かれた。
それでも強い眼差しで頷く彼女に、刀削のときと同じように、姉上の姿が被って見える。きっと彼女も、刀削と同じように、大きな戦果を上げてくるだろう。
また、暗い思いが胸を塞ぐ。
刀削と、甘明を、死なせてしまう判断を、おれはしてしまった。
あそこで、行っていれば。
目を閉じる。首を振って、その思いを頭の中から払い出す。
討伐から皆が帰ってくるまで、それまでは。
死なない。当主としての任を、全うするまでは。
ふと気を抜けば、暗く塞がってしまいそうになる思いは、一月の間、おれに付きまとい続けた。どんどん強くなっていくそれに負けそうになる心を、訓練をつけることで、何とか奮い立たせる。まだ、できることが、自分にもあるはず、その一念で、飯を食った。
***
「ご当主、太刀筋を見てください」
屋敷に来たばかりの少年は、強くはっきりとした眼差しと、溢れるような炎の力を持っていた。未来を託すに相応しい面立ちと、自分の職を継いでくれる喜び。京に戻った刀鍛冶に依頼した、この子だけの剣は、じきに手元へ届くだろう。もうすぐ、討伐隊も戻るはずだ。
うるち、ちいね、そして、あずま。
三人の力は、必ず朱点を討つだろう。この子たちは、強い。
全員に訓練をつけることが出来た。皆、自分の声を聞いてくれた。自分の力と、そして情報を伝えられた。討伐記録には、十全な情報を記した。空は青く抜けるようで、日差しはずいぶんと土を温めている。
ふ、と、体の力が抜けた。
***
気がつけば、布団の上だった。
自分を覗き込む、討伐隊の姿が見える。みな、一様に不安な顔をしていた。大丈夫、と笑おうとして、それができない。
胸の内のどろどろとした思いが、口から溢れそうになる。イツ花の、新当主就任を、という声を聞いた時、甘明の隣に座るあずまが、うぅ、と嗚咽を漏らした。一月、よく訓練に耐えたね。そう言ってやろうとするのに、口がうまく動かなかった。
甘明が、あずまを抱きしめている。来たばかりのとき、母はああして、自分を抱きしめてくれた。甘明には、それをさせてあげられていないことに、今更ながら気がつく。
指輪をあずまに渡してしまえば、甘明は当主として、あずまを立てるだろう。兄たちが、自分にそうしてくれたように。
それは、ふたりにとって、寂しいかもしれないなぁ。
指輪を抜いて、うるちを見た。こくん、と強く頷く、我が子が見えた。
口々に、家族たちが自分を呼ぶ。
その声に、胸の堰は外れてしまった。声になっているのかどうかわからないまま、口だけを動かす。
怖かったんだ。
精一杯だった。
本当に、ごめん。
霞んだ目で、弟妹を見る。
聞こえているはずのない声のあと、ふたりは、手を握ってくれた。わかってるよ。大丈夫だよ。責めたりしない。あなたは、正しいよ。
ありがとう。声が、聞こえる。
ああ。
わかってくれていたのか。
何も、怖がることは、なかったのか。
なら、言い残すことは、もう、なにもないな。
笑ったつもりが、笑えていたのか。
それはもう、わからなかった。