大食一族 久遠の詩

俺屍リメイクをプレイします

最終決戦③

右、後方、左右、左、後方、目の前。
赤毛の姿が見えないまま、こちらを嘲る声だけが響き回る。
眼球だけを動かして回りを見る。武器を手放している者はいない。びりびりとした空気、全員が当たり前に臨戦態勢で、自然と四人、背合わせになりながら気配を探る。
血泥になって跡形もなく消えたはず。なら、今この声はどこから聞こえ、声の主である赤毛はどこにいるのか。
いいさ、どこからでもかかってこい、と思いながら、矢筒に手を伸ばす。
けれど。
直後。
攻撃を受けたのはわたしたちではなかった。


****


胃を引っ掻き回されるような悪臭。

尊厳はもう零にまで堕とされていると、そう思っていた。先ほどまで普通に話していた人物の腹が膨れ、太く鋭い爪が生える。腕が、足が、肌ではなく木の皮のようなものへ変じ、見る間に人の姿でなくなっていく。みちみちと何かが裂けるような音。ぶちぶちと何かが引きちぎれるような音。その隙間に、甘えた猫のような、どろどろに溶けた声が挟まる。
「そのあとでまた、優しく抱いてくれよ、母さん……」
また、というその言葉。せぐり上げてくるような吐き気をこらえながら、それでも眼前の光景を見る。鼻の奥が痛いのに、視界はぼやけてもくれない。
目をそらすな、と脳の奥で叫んでいるのは誰なのだろうか。
「ボクのこと、愛してるって言ってくれよォ……」
異形に変わってしまった祖が、終わらせろとそう告げてくる。
突き出た腹。体の大きさに対して不均衡なほど細い腕。祖の背と一体化するように、顔が、赤毛の顔が覗いている。
腕と足以外、どこが何の器官なのかはわからない。けれど体の中央部分、祖のはだけた胸元は植物の根に絡みつかれているようで、腹とも腕とも違う色のそれが、まるで人の手のように祖を抱えこんでいる。
ああ、そうか。
不意に合点がいった。あの男は、背にしがみついているのだ。ならば、あれは母親の背にしがみついて離れない赤子ではないか。
ぎり、と弓を握る。
湧いてくるのは怒りなのかそれとも違う感情なのか、わからないまま矢を番えなおした。退路など、もともとない。やるべきことは同じなのだ、と自分に言い聞かせる。
けれど。
「どうしたの、ほら、弱点はここよぉ、遠慮なくぐちゃぐちゃにしてぇ」
あははははははと笑う赤毛は、楽しそうなことこの上ない。
今すぐに射殺してやりたい、けれど、ぐいと爪で持ち上げられたそのひとが、生きているかどうかが見えなかった。目は閉じられ、顔に生気はなく、今は声も聞こえない。けれど目を凝らした瞬間、誰かの悲鳴が耳の奥に蘇り、乱雑にばら撒かれた幻灯のように、雑多な記憶が脳内で渦を巻いた。ああ、まただ。これは誰の記憶なのだろう。痛みはなく、ただばちばちと目の前の景色に違うものが重なる。この怒りを、恨みを飲み下すことができるのだろうか。今はただ、終わらせるのが正しいとわかっている。けれど、それなのに。
「ああ、あぁああ」
文字通り、口から声が漏れた。手が、指が、震えているのだ。哄笑は止まない。「そこ」に向けて矢を放つことへの逡巡を、確実に見抜かれている。記憶の波は止まらない。弓を引き絞る。けれど、力が。
「母さん!!!」
笑い声だけだった場を、制すような大きな声が、じんと鼓膜を震わせた。ぶれた視界が急速に、鮮明に塗り替えられていく。ひかり。漏れた声そのままに、自分の、息子の、名前を呼んだ。気付かず暴れていた呼吸の調子が、ゆっくりと戻ってくる。
脳をかき混ぜられるような、腹立たしい笑い声の雨の中、それでも自分の「家族」がそばにいるという事実。それが、折れそうになる心の中で芯になっていく。文太は拳を構え、六兵衛は静かに相手を睨んでいるだろう。自分を呼んでくれた息子は、泣きそうな顔をしているかもしれない。
息を吸い、吐いた。大丈夫だ、見ずともわかる。
震えている場合ではない。指示を出さねばと、白くなった頭を何とかして動かす。
唇を舌で湿らせ、口を開こうとした、その時。

じくり、と。
右手薬指が、強く痛んだ。

咄嗟に矢を摘んだ手が緩み、そのまま床へ落ちてしまった。しまった、と拾い上げようとしたとき、ぐわり、と何か大きなものが、体の中に降りてくるような感覚に襲われる。混乱する間もなく、頼む、一太刀。低く、唸るような声が耳の奥で響く。何を、と思った次の瞬間には、体は動いていた。
「っ、楽紗!?」
「おいっ……!」
六兵衛の、文太の悲鳴めいた声が後ろから聞こえて、ようやく自分が駆け出していることに気付いた。けれど、自分の体は止まらない。装束の隙間に手が伸びる。雑に挿している懐剣は、行手を阻む草を伐ったり鬼を解体するために使うものだ。たかだかそれだけのものを、わたしはどうして鞘から抜いているのだろう。
「お輪っ!」
異形の名前を呼ぶその声は、自分の喉を震わせて発された。けれど、それすら後追いで気付くような、不可思議な感覚。自分の行動を止めたいのに止められず、眼前には赤毛の楽しそうに歪んだ顔、空気が動く音がするほど、大きく振りかぶられる爪を、無理矢理身を捩って躱し、下げた左足で地面を蹴り上げて懐へ潜り込む。躱しきれなかった爪の先が顔に触れ、ぴ、と頬が切れる音がする。体が動くままに、腕をぶんと振った。
自分の中に存在しないはずの剣技が、祖の首筋を、的確に、裂いた。
一瞬、異形の体が傾ぐ。けれど笑い声は止まらない。きっと、さしたる傷も受けていないのだろう。
自分の身に何が起きたのか把握もままならないまま、ただ体が動くままに、弓を放てる場所まで後退する。そこまで来てようやく、自分の体が自分に戻ってきた。
考えるのは、後だ。
「……ブン、六兵衛、いつものを頼む!」
顔を見ないまま指示を飛ばす。一瞬の困惑、けれど、どん、と地面を踏みしめる音と、自分の拍動が強くなる感覚が交互にやってきた。
大丈夫だ、私はここにいる。
自分に言い聞かせながら、弓を握り込んだ。

手の震えは、止まっていなかった。