大食一族 久遠の詩

俺屍リメイクをプレイします

そこにはいけないけれど 前

「名前はひかり、職業は剣士になってもらいたい」

ああ、楽紗の声はよく通るな、と思った。
目を開けるというただそれだけの行為に、やたら時間がかかる。頭の中には霧がかかっているようだったけれど、それでも胸まで掛けられた掛け布団の感覚や天井が見えることから、自分の状況は容易に理解できた。何度か瞼に力を入れ、なんとかして開く。すこしだけ頭を傾げれば、薄膜の向こうにぼんやりと広がる光景の中に、見慣れない影がひとつあった。


「おこ、きた?」
目を開ける数倍の時間をかけて、声を絞り出す。喉を震わせたそれはまるで自分のものではないように嗄れていて、楽紗の声とは対照的だ。それでも声が届いたのか、六兵衛がはっとした顔でこちらへ向き、どたどたと枕元へ腰を下ろした。
「よかった、目、覚めて、もう、話せないかと」
ぶつ切りになった声に、馬鹿ねと返してやりたかったけれど叶わない。なんとかして手を動かして、見た目よりずっと柔らかい髪を撫でた。その後ろで、むぎ姉さまが眉尻を下げている。大丈夫、と言おうとして、それもやはり叶わなかった。
「当主様。わたしの子だ。ひかり、と名付けた。いい名前だと思ったんだ」
楽紗に促されたひかりが、六兵衛の横に腰を下ろす。よろしくお願いします、と辿々しく頭を下げる彼を見て、来たばかりの頃の自分を思い出した。障子を貫く橙の夕日が、ひかりの横顔を照らしている。金の双眸が、緊張に震えていた。
抜ける風に夏の暑さはなく、庭先からはかすかに、鈴虫の鳴き声が聞こえてきた。そういえば、楽紗が来たばかりのときも、こんなふうに涼しい風が吹いていたのだ。あなたのなまえには、たくさんの思いが込められているんだよ、と、ねえさまは、楽紗に話せていただろうか。
「よろしくね、ひかり」
腹に力をこめて、名前を呼ぶ。はるか未来へつながっていく、いい名前だと、心から思った。

*****

目の前で討伐準備が進んでいくのを、ぼんやりと眺めていた。このなりで動くのは不可能だろうし、来たばかりのひかりへ訓練をつける、という大事な仕事もある。眠って起きてを繰り返すうち、あっという間に討伐隊が家を出る日を迎えた。
少量だが、食事は喉を通る。漢方のおかげか体も起こせるようになり、見送りは玄関で行うことができた。照りつける太陽に、けれど肌を焼く強さはなく、薄雲の向こうで空にあいた穴のようにまるく光っている。
行ってくる、とひかりを抱きしめる楽紗の顔。帰ってくるから待っていてと、絞り出すような六兵衛の言葉に、ひとつ頷く。その向こうで、むぎ姉さまが唇を引き結んでいる。
なにか、言葉をと思う。なにか、話さなければと思う。けれどいまのわたしに、何が話せるだろう。
「母さん」
逡巡を裂くように、文太がぬっと顔を出した。むぎ姉さまが驚いたように声を上げたけれど、意にも介していないような顔が、ゆるく結われた髪の向こうに見える。
「話さなきゃって。昨日言ってたの聞いたけど」
「なんであんたがそれを」
「聞こえたから。で、もういいの」
いいなら行くけど、と継がれた言葉が終わるまえに、姉さまはこちらへ足を向ける。反射のようにわたしも一歩、足を踏み出した。そして広げられた腕の中に、倒れ込むように身を預ける。
「……いい、帰ってくる前に死んだりしたら、承知しないんだから。小町、帰ってきたら、絶対、ちゃんと話すんだからね。絶対、ぜったいなんだからね。わかった?」
震えた声を聞きながら、何度も何度も頷く。
ちゃんと話そう、それまでは、と、熱くなる目頭を姉さまの肩口に押し付けて、口を開く。
「いってらっしゃい」
「行ってくる」
顔を見合わせる。笑顔は、とんでもなくぎこちなかったけれど、それでも。
それでも笑って、全員の背中を、送り出した。

****

ひかりは、よく動く子だった。
指南書を片手に訓練を見る。体が動く日は術の手ほどきや、組み手の相手をすることもあった。その全てを真っ直ぐに受け止め、糧にしていく姿は、本当に頼もしかった。
それは乾いた土が雨を吸い込むようだった。どんな言葉も、どんな動きも、逃してなるものかと貪欲に吸収していく。読み方を教えなくとも、きっかけさえ教えれば術の習得はあっという間だったし、藁巻きへ行われる斬込みも、日増しに力強くなっていく。訓練初日はずたずたと荒かった藁の切り口は、月の半分を超える頃には刺さるほどに鋭くなっていた。そして、切り落とされた藁はせっせと台所に運び込まれ、干物を焼いたり猪肉を焼いたりと大活躍だ。今日もまた、切り落とされた藁が台所にずらりと並んでいた。

肉を頬張るひかりの横で、わたし用に取り分けられたお菜を口に運ぶ。小鉢にはお揚げと白菜、それからお豆腐とそぼろ。どれもとろとろと煮込まれていて、淡い味付けは食欲のない体にはありがたかった。
出汁の染みた白菜が、おなじく柔らかく炊かれた白米と一緒に、胃の中へするりと落ちていく。ごく少量盛られたご飯を、ゆっくりゆっくり咀嚼した。自分の小鉢と、目の前の大皿。空になったのは、ほぼ同時だった。
「当主様、その……おいしかったですか」
御馳走様と手を合わせたとき、躊躇いがちにぽつりと声がかかる。正面から投げかけられた、伺うような視線を受け止めて、ひとつ頷いた。瞬間、ほっと安心したような息が、ひかりの口元から漏れる。
「ひかり?どうしたの」
「いや……ええと」
照れたような、困ったような表情。瞳が右へ左へ行ったりきたりしている。口元はもごもごとしていて、隠しているのか、言い出せないのか。促すために、顔を覗き込んだ。
「漢サマ、今日のゴハン、ひかり様が作ってくださったんですよ」
耐えかねた、というように、皿を下げながらイツ花が笑う。
「ええ?」
「い、イツ花、言わなくていいって」
「でもとっても美味しかったですしィ」
目の前で交わされるやりとり。口の中に、じゅわっとしたお揚げの味が蘇る。イツ花はきっと、わたしの体調を考えて味を見てくれたのだろう。その気遣いがありがたく、胸が、じわりとした。
「料理は面白いけど、やっぱり難しいよ。刀の扱いより包丁のほうが難しいかもしれない。イツ花はすごいよ」
まっすぐな褒め言葉に、イツ花は困ったように笑っている。そうだ、わたしたちはずっと作ってもらうばかりだった。ちゃんとお礼を言わないと、と思うわたしの前で、ひかりがバツの悪そうな顔をしている。
「今日も、白菜を削ごうとして失敗しちゃったし」
言いながらひかりは、手の甲をひらひら、と揺らす。その親指の付け根に、手当されていない真新しい傷が見えた。
赤く、鋭く、浅い傷。
わたしは、その傷を、知っていた。
包丁は慣れますよ、それより手当を、というイツ花の声が、妙に遠く聞こえる。

選考試合から戻った日、用意されていた大好物の赤飯と、おかず。
ひかりの手に一筋入った傷が、頭の中で、むぎ姉さまの手と重なって。
あの日食べきれなかった赤飯と、お肉の味が蘇る。

あたたまったはずの胸が、急速に冷えていくのを感じた。